シコウノストレージ

自分自身の考えを整理するために書いています。

社会を俯瞰するために感覚と感情をずらす

感覚と感情は厳密に言えば、人それぞれありみんな違うもの。

しかしながら、多くの人は同じ感情を抱くということは多い。

 

そうでなければコミュニケーションというものが成立しない。

個人主義といえるような、人はみんな違うというのは納得できる部分はあるが、普段からそんなことを考えていたらコミュニケーションがとりようがない。

 

根底にある考えは【基本的には自分がされて嫌なことは人にしない】、【自分がされてうれしかったことを人にする】というような人も同じように感じることを前提としている。

 

もちろんそうでない場合も往々にしてあるのも承知の上で、自分の感情を他人にすべて当てはまると考えることは、それこそ人のことを全く考えてない。

 

多くの人はそれを理解していて、バランスよく使いこなしているのだろう。

その手段としてタイプ分けをして対応していることからもうかがえる。

(陽キャ(外交的),陰キャ(内向的),メンヘラ(病み),ヤンデレ,LGBTQ,腐女子,ヲタクなど)

 

これらは、ある対象物に対してある程度同じような感情を抱くグループとして分けられていると感じる。

少々雑な分け方もあるが、人はみんな同じと思うよりはよっぽど良いだろう。

 

この記事では、そういうグループ化がされるくらい人間は同じような反応をするという方に注目する。

 

みんな違うという主張は強調されるが、大きく分ければ大体同じような反応をする人がたくさんいるというのはあまり言われていない気がする。

 

 

あまり言われないが、この事実に着目する意識することは、社会を俯瞰することを大きく手伝ってくれるのではないだろうか。

 

社会を俯瞰することは、自分の居場所を認識することでもあるし、社会のどこに介在するべきなのか、駒を置けばよいのかを考えることができるということでもある。

 

駒を置く場所を変えたいのならば、感覚とか感情ひいては認識を意図的にずらすということをお勧めしたい。

変えられない部分はもちろんあるが、環境によって人間の感情なんて案外すぐに変わっていくものであると考えている。

 

それに、感情は変わらなくても少なくても認識を変えることはできる。それだけでも、任意とはいかずとも現状とは違う位置に介在することができるだろうと思う。