シコウノストレージ

自分自身の考えを整理するために書いています。

歪みの定義と取り組み方

先日、これからは変なプライドを捨てて歪みをとることに全力を注ごうと決めた。

自分の中ではある程度の定義はできているが、何となくな部分もあるので一度言語化して書き残しておこうと思う。

 

まず、歪みの定義は「(本質的には)同じことであるのに違うことと」個人的には定義したい。

まぁ分かりやすい例でいえば、所得には税金がかかるがセールには是金がかからないとか。110円の消しゴムを55円で買うのと110円の消しゴムを110円でかって45円取得するのは"本質的には"同じだけど、後者は45円には税金がかかる。(極端に言えば円の前に万を入れるとわかりやすい)

物事はそう単純なことばかりではないが、同じことであるのに違うこととして扱われることが多々ある。そして、どちらかが(極端に)不利になっている場合もある。

 

違った角度から見ると、コスパが良いということができる。これは直に有利不利につながるケースで、同じお金を払っているに得られる効果は完全に上位互換みたいなケース。

個人的には、お金に対するコスパだけを追求している人生は非常につまらないと思う。とはいっても、上記のように完全上位互換が存在するのも事実。

そこをどうとらえるのかと、コストといってお金だけをイメージするのは違うと個人的には思う。

定量的には表しづらいが、心理的コスト、時間的コスト、将来的なコスト、またちょっと違うが投資に対する勉強代みたいな考え方。いろいろある中でどうコスパを定義するかは自由で、その定義を考えるのが醍醐味な部分は正直あると思う。

 

「(本質的には)同じことであるのに違うことと」というのは、考えようによってはいくらでもあるし、人間は定義し判断する必要があるので多くを扱うのは大変で、それだけでは大きな価値を発揮できないと思う。

(だって例えば毎日セール情報検索するの面倒じゃない一つならばギリできなくもないけど)

いかに自動化するかこそが大事な問題だと自分は思っている。

 

これが題名のもう一つの「取り組み方」の部分。

同じことを繰り返し行うのがコンピュータが得意な部分だ。正確さや記録の保存など人間が得意としていない部分の多くはコンピュータにやってもらえば良い。

個人的にはまず簡単な部分から始めようと思っている。

その詳細はまた別の記事に書こう。

歪みをとると決めた日

最近自分も成長してきて、世の中のことが分かってきて理解したことがいくつかある。

その中の一つが確かな歪みが存在していているということだ。

 

トレードをしていたこともあるから、歪みが世の中に存在するという事実は知っていたが、身をもって実感したというか自分の頭の中で納得感をもって現れてきたのは最近のことだ。 

 

歪みというのは要は非合理的な意思決定、または合理的な判断によってゆがめられてしまった生態系のことだ。

つまり、秩序がない=通常で考えればありえないようなことである。

 

今思えば、学生時代は合理的なエコシステムが存在してたなぁと思う。

学校という世界が特殊というのはよく言われるが、性質上どうしても価値観が同じになりやすい。それはまぁ自然な状態ではないともいえるが秩序は保たれている。

スポーツができる男子がモテやすい、陽キャ女子がモテやすい、勉強ができる人が褒められやすい等、多く人が何となく「あー」となるような単純な価値観があった。もちろんこれは、成長していくにつれて変化していくものだがまぁ大人の世界に比べたら単純で分かりやすいと思う。

 

ただ、秩序が保たれていると歪みが存在しにくくそれはそれで残酷であるという見方もできる。正確に言えば歪みを本人でどうこうできる問題ではないということ。親ガチャ、環境ガチャ、生まれガチャ等。これは生まれつき決まっているし、自分でコントロールできる部分はどうしても限られる。

 

今も感じているがやはり大人の世界は、学生時代に比べて無秩序であるなと思う。みんな独自の価値観や考え方を持っていて、だからこそいろんなところに歪みが生じやすい。

 

個人的に表現するなら、ルールが変わってより感情が介入する余地が多くなっていると表現する。

だから学生時代からチェンジしたルールを認識できなければうまくいかないことも多く。おそらくそれを何となく認識できる人も多いのだろうが、多分自分は苦手なタイプだ。

ただ、何となく認識しているといっても解像度の違いはあって、解像度が高い人が天才と呼ばれるタイプの人なんだろうなと何となく思っている。

逆に考えて見つけたタイプの人は解像度の認識が高いが、ルールの把握が華麗ではないので秀才タイプと呼ばれるのだろう。知らんけど。

 

どちらでも良いがその境地にたどり着く必要がある。

なので自分は歪みをとっていこうと認識した。

歪みの定義、そしてルールの把握の具体的な話は次のブログにでも書こうと思う。

今年の振り返りと来年へ

今年は正直に言えば、あまり成長感というものは感じられない年だった。

というもの競プロに力を注いだけれども、必要最低限の能力が欠如していて具体的に何をやればいいのかというのを模索しながら勉強していたというのが主な理由。

最近それをやっと気づいたというか、回数をこなすことでその判断ができるくらいにはなってきたので来年こそは飛躍していけたらと思っている。

 

ただ、目に見える成長感というものは感じられなかったけれども、土台作りという意味で一番大変な部分、畑を耕す段階としては悪くなかったとも思う。

競プロ自体はプログラミング能力のすべてをカバーしているわけではないが、去年の今と比べたら、実装力という面から見ればプログラミングのスキルも向上している。

 

やっと軌道に乗ってくるかなという感覚はある。

だからこそ、来年は勝負の年という感覚。

今年は種まきと畑の整備両方をやってしまったせいで少し迷走した感はあるものの、ようやく畑の整備が最低ラインに乗ってくる感覚はある。

今年耕した畑を有効活用できなければ、また畑を耕すということをやらなければならなくなる。

そうならないためにも、しっかりと軌道に乗せて一定の壁は超えたい。(目標は水色)

 

また、最近気づいたこととして畑の耕し方にもレベル感があるように思える。

種まきの段階から同じように育ててきても、畑の状態(環境)が違えば同じように育たないように、土台(基礎)をどれだけ解像度高く理解できているかという視点はとても重要と思った。

 

それに気づいたのは最近ではあるのでまだまだ改善できる部分はある。

ただ一度気づいてしまえば、水を上げている段階でもおそらく畑の耕し方が悪いのだろうと気づけるので、常に畑の整備というのはちゃんとしていきたいと思う。

 

畑の耕し方を例に出していたが、要は物事を見る目の解像度の問題のことである。

認知といってもいいだろうし(?)界隈では言い換えなんて言われたりもしているが、要は物事の本質を見極めたうえで、いろんな視点で見れるかだったりそこに装飾したりできるかということである。

 

いろんな視点で見れるかというのは、よく言われているので割愛するが、そこに装飾できるかというのも本当に重要だと思っている。

これが応用力につながってくるのだろうという認識はある。

装飾できるかというのは普遍的に使えるように抽象化したものを、具体にあてはめる際に最適化するということでもある。

これは、もちろん基礎をちゃんと理解していないといけないので一つ上のランク。

ただ、来年はここまで行きたいと思っている。

自分に合ったやり方は大事だが視野狭窄になってはならないという話

自分に合ったやり方を貫くというのは大事なことで万人にとってのベストアンサーなど存在しない。

つまり自分の正解が他人の正解ではないし、その逆もまた然り。

とそういう考えはとても大事だが、同時に視野狭窄にはなってないか振り返るというのもまたやらねばならない。

 

それは自分に合ったやり方を主体的に選ぶということででもある。

試した結果で選ばず、俺にはこのやり方があっていると消極的な選択をし続けてはならない。

 

これは、穴掘りで例えるが自分の手になじんだスコップで掘っていくというやり方があっていると思っていても実際は明らかにブルドーザーを使って掘ったほうが速い。

 

それを試して運転できないまたは習得コストを考えて、スコップを選択をするというのならばそれは主体的な選択だが、全く見向きもせず俺はこのやり方があっているという信念を持っていてもより良い結果にはつながらない。

 

自分に合ったやり方を見つけたからといってこれからも続く保証はどこにもないし、そもそももっとあっているやり方がある可能性だって全然ある。

いつでもそれを探すという主体的な姿勢が大事だが、意識しないと忘れていく部分でもあるので注意したい。

ちょっと精神論的な話

タイトルの通り。

今日は全然やる気がわかないので自分の考えを外に出しておこうということで。

 

自分は少々正解を求めすぎている時がある。

正解がないとわかっているからこそ、普段は行き過ぎることは少ない。

だが、同時に探すことこそ大事だとも思っている。

正解はないけど探すことに価値がある。

だから、探し続けている最中にそのことを忘れてしまう。

もちろん、知っているので一歩立ち止まれば思い出すことはできるが。

 

ここで、正解がないというのはそのままの意味では少々正確性に欠けるのでちょっと説明する。

"何かに対して"は必ず正解がある。

例えばダイエットをするにも食べないor運動するなどをして摂取カロリーを消費カロリーが一定以上上回ればよいというのは正解。

 

つまり、上の条件が満たされていれば何をやっても正解ということになる。

しかし、なるべく早く痩せたいというのならば、よりよい解が存在するし場合によっては不正解になる場合もある。

瘦せるのに10年かかる方法だったら良いとは言えないだろうし、期間が明確ではないが” なるべく早くなのでもっと早い方法をネット検索するなりで見つけて不正解にしてしまうことだって可能だろう。

 

このように、正解というのは考慮する変数が増えれば増えるほど複雑化ししまうので、そこにこだわって探すことも大事だが、あまりに複雑な場合変数に優先順位をつけて減らしてしまっても良いということだ。

 

難しいのがどのくらいのバランスで考えればよいかという部分。

例えば極端な例だと先ほどの10年ダイエットを愚直に実行してしまうよりはもうちょっと調べて考えたほうが良いだろうし、逆に調べすぎて真実が分からなくなって時間を消費→結局たっせできないなら元も子もなくなってしまう。

 

ここが考えるほど難しい。

そもそも優先順位を定義するのが難しい。

個人的にだが、優先順位なんて決めなくても良いとすら思うくらいに。

例えば、ダイエットの例で行くとダイエットをするのが目標で、次になるべく早く痩せたいがきて、なるべく楽な方法で、短時間で、安くて、人目につかないところで来て、人におすすめ出来て..etc

と希望は尽きないとは思うが、後半になってくればくるほどプラスαの差異が小さくなってくるので優先順位をつけるのが難しくなってくる。

なら、許容できるところに境界線を引いてそこを達成できればなんでもいいじゃないと考えるのを個人的にはやりたいと考えている。

個人的にはなるべく楽な方法で~以降はさして重要ではないので以下を切る。

なので、つらくてもやる。

もし、続かないのであれば一段境界線を落とせば良い。

そうやって許容度を考え、全部の理想的な世界=聖杯を探そうとするのではなく、必要なものだけを満たすということを意識するだけでよい。

こうすればよりシンプルになるし、かといって許容度を超えるようなことにはならないだろうと考える。

 

ただ、何度も言うように欲張ってこのラインを下げすぎるのは厳禁。

かといって本当の高みを目指すならここを極限まで下げる必要があるのだろうなとも思っている(これは想像でしかないが)。

ひとまず、自分はこう考えている。

恋する寄生虫

三秋縋の「恋する寄生虫」を読んだ。

感想書いてないけど、この作者の本は「いたいのいたいの、とんでゆけ」に続き2作目。

 

 

簡潔に面白かったか面白くなかったかで言えば面白かった。

多少のご都合主義的な部分はあったが、個人的にそこまで気になるほどではなかったし、話の方向性は完結まで一貫性があり表現のきれいさの方が目立っていた。

ラノベ寄りともいえるが、表現の秀逸さという点はプロを感じた。

 

次に、内容に焦点を当ててこの本を一言で表すなら「終生交尾」だろう。

最初出てくるフタゴムシの話。

これがこの本の核であり、佐薙と高坂の関係そのものだと思う。

フタゴムシの終生交尾という性質を肯定も否定もせず、きれいな形で二人の人間に落とし込む。

そしてきれいな形のまま終わりを迎える。

 

「いたいのいたいの、とんでゆけ」でもそうだったが、この作者の終わりの美しさとか終わることに対するネガティブな感情を尊くポジティブに表現してるのが好き。

 

高坂が思い悩む場面で、自分は寄生虫によって恋をしているわけだから糸が目に見えないだけで操り人形と変わらない。

そこに失望する高坂がいて治療を受けることを決心する描写がある。

結果的に治療を受けないことを選択をした佐薙が最後には死を迎えないという意味で正しい選択といえるが、「自分の気持ちではなく恋をしてた」と知って治療を受ける選択をした高倉の誠実性の高さはうかがえる。

 

ただ、「最終的に自殺を迎える背景があった」から治療の選択したとも取れるので、もしあの時点で寄生虫の生態が分かっていていたのなら間違いなく治療をしないという選択をしただろうなと思えてその部分はやるせない。

 

最後の終わり方に関しては想像の余地が多分に含まれて、佐薙としては間違いなくハッピーエンドだろうけど、高坂はおそらく佐薙が自殺した後につらい気持ちを持ちながら後を絶つのだろうとは思う。

だってそれが終生交尾だから。

しかし、虫がいなければ二人ともとっくに命を絶っていたはずであるし、このような一瞬の煌めきさえなくして死を迎えていただろうから、佐薙のいうように最善とは言えずとも最悪とは言えないだろうと思う。

 

作者のあとがきからもうかがえるように、「人の価値基準は場当たり的なもので人間の価値観の倒錯はもっとも美しいバグ」この言葉に集約されると思う。

絶対的な価値観がすべて正しいわけでなく、「引き算の幸せ」おそらく「相対的な差分」そんな価値観がその人にとって一番の思い出でいい。

 

佐薙も高坂もそれぞれにとって一瞬の煌めきを持ったまま死ねたのは多分幸運なことなことでハッピーエンドと言ってもいいと思う。

頭バグらせることが人生の楽しみだったりする

頭バグらせるというのは言ってしまえば価値観を大幅に変化させるということ。

 

おお幅な変化といっても、単純に遠い価値観に迎合するでもいいし、それに限らず長らくの固定観念を変える時なども割と大きな労力を要するのでその場合等も含む。

 

そうやって価値観を変えるのは苦痛を感じる人もいるし、個人的にも刺激強すぎれば苦痛に感じるがそれが案外楽しみだったりもする。

 

なので意図的に感覚的に嫌なものを続けてみて慣れさせるということをやったりする。

慣れは続けられればいつか必ずきて、その感覚に慣れたときには慣れる前の感覚なんて忘れてることもある。

 

それを意識的にやっているとバグらせることの刺激自体にも段々慣れてくるし、新しい価値観を得ることができて結構楽しい。